0008 アイトナム理論について
ここでは、アイトナム理論の解説をします。
MKとMSは、成功を求め、成功を実現させるためには何をどうしたら良いか、を模索するうちに、「アイトナム」という概念、考え方を採用するに至りました。
アイトナムの概念を理解利用することによって、自分の人生を効率良くコントロールすることが可能になります。
① アイトナム(ITONAM)、とは、MKとMSの創造語、です。
➢ 営み = ITONAMI と ITEM をミックスしてつくった言葉です。
➢ 日本語では、「宗営」という漢字をあてています。
② アイトナムとは、「全ての営み」を称します。
➢ 行為・行動だけでなく、状態や感情も含みます。
➢ To be も、to do もアイトナムです。
(シナトラのDo be do be do はこのことか、アインシュタインの、「存在は、エネルギーなのだ」と同じ事を言っていた、と気づきました。)
➢ 経験・体験と同義の場合もありますが、むしろ「経験値を積む単位」と考えると理解しやすいかもしれません。
➢ 手っ取り早く「手間暇かける」の「手間」と同義の場合もあります。
➢ 外部からの刺激によって自動的に反応する、無意識のうちに感じている、行ってい る場合も、アイトナムの1単位として扱います。
③ アイトナムによって、人間の全ての営み(行為・行動・状態・反応)を時系列で記載・表現・あるいは置換が可能です。
④ アイトナムを意識することによって、正しい方法で試行・思考回数を増大できます。
⑤ アイトナムは抽象と具体、全てをフレーズ化しようとするシステムです。
⑥ アイトナムは行動、行為はもちろん、感情や状態、反応も含みます。
⑦ アイトナム理論は、自分の人生をコントロールするための手段です。
⑧ アイトナムは、「経験値」の累計を管理するための手段です。
⑨ アイトナムは、経験・体験を含みます。
⑩ アイトナムは、経験・体験によって得た知見も含みます。
無駄なく、無理なく、出来る限りの低コストで、試行・思考・施行を実施し、さらには積み上げて累計してゆくためには、そのユニットを明確にする必要があります。
その手法につながるのがアイトナム理論です。
ここで、着目したいのは、同じ「アイトナム」を実行実施体験経験する際のコストには、個人差が大きいということです。
あるアイトナムを実施実行、あるいは体験経験するときに、精神的、肉体的苦痛を伴うことを「努力」「苦労」と称します。
ただ、ここで注意しなくてはいけないのは、ある「アイトナム」を実施・実行・経験・体験して得られた効果・成果そのものは、その「アイトナム」の実施・実行・経験・体験に苦痛をともなったかどうかには、関係がない、ということです。
そう考えると、ある「アイトナム」を実施・実行・経験・体験する際に苦痛を伴わない、精神的肉体的コストが他者より少ない、ということが、「才能がある」、「センスがある」「天分に恵まれている」あるいは「環境に恵まれている」ということと同義なのでしょう。
成功するためには、「経験値を効率的に累計」するのが効果的ですが、例えば、その過程を「努力」という言葉でくくってしまうと、方向性を見誤る可能性があります。
⑪ この地球上の全てを、「アイトナム」という単位で同列に把握することが可能です。
⑫ 何かをしない、という行為もまた1つのアイトナムとしてカウントします。
⑬ アイトナムは、全て、フレーズで表現あるいはフレーズに置換が可能です。
⑭ 全てのフレーズは、主語と述語の1対1対応まで、単純化あるいは抽象化が可能です。
(補足1) 報われる努力と報われない努力
もともと、MKは成功したい、と思っていました。
どうやったら成功できるのだろう?
(注1)
まあ、まず必要な事は、「自分にとって、成功とはこういう状態だ」ということを(仮にでもいいから)まず決定することが第一のステップなのですが、そのTOPICに関してはこのHPでは詳細に触れません。
(注2)
「成功」とは、ここでは、人生における「成功」です。(日々、の課題解決を「プチ成功」と記載します。)
「成功」するための方法を模索して、MKは随分色々と考えました。
本も読んだし、セミナーにも出席したし、成功者の講座にも出席・参加しました。
取り急ぎ、「努力」「苦労」というキーワードが共通しているな、と感じました。
成功者の講演では、「自分は成功への過程でこんな苦労をした」「成功を目指してこれほど努力した」という話が多かったからです。
「人と違う、人より大きな成功が欲しかったので、それを獲得するために、こんな苦労や努力をした」
「人と同じことをしては同じ結果や成果しか得られない。人より大きな成果を得るために、こんな苦労と努力をこれだけたくさんした」
様々なエピソードを読み、あるいは聞いて、なるほどそうか、と思った訳ですが、その一方で、じゃあ、努力さえすれば成功するのか、苦労した人間が全て成功したのか、という疑問がうかんでくる訳で、人の2倍努力や苦労すれば2倍成功するか、というとそうでもない。
ただ努力や苦労をしても成果につながるとは限らない、という事にも気づきました。
成果につながる努力と、成果につながらない努力があって、成果につながる努力を継続的にするのが成果につながるのだ、という考えにたどりついたのですが、「成果につながる努力」をすれば成果につながる、って何だこれ、当たり前というか言葉を繰り返しているだけではないか。
それで、考えを二つに絞りました。
<明らかにすべき疑問1> そもそも努力とは何なのか?
<明らかにすべき疑問2> 効果につながる努力と効果につながらない努力はどうやったら区別できるのか?
まず、目的は「成功する」ことです。
「成功する」ためには、「そのための努力」が必要である
「成功につがる努力」をするためには、「成功につながる努力」と「成功につながらない努力」の区別が必要である。
どうしたら、区別できるのだろう・といつも考えながら、就職して、会社で労働し、様々な経験を積むうちに、成功につながるのは、「努力」ではなく「行動」ではないか、と考えた時期があります。
しかし、行動が全て成功の要因か、行動さえすれば、成功するのか、というとそうでもない。
「努力」「行動」というより、「手間」がかかっている、人より多くの「手間」をかけているのではないか、と考えた時期もあります。
では、「努力」と「行動」とはどう違うのでしょうか。
ここで、気づいたのですが、ある「行動」をとるために精神的・肉体的、あるいは経済的コストが大きい場合、苦痛を伴う場合、それを「努力」と呼んでいるのだ、ということです。
例えば、MKは文章を書くのが好き、本を読むのが好き、だから、文章書く、読むことあるいは書き留めることの精神的・肉体的コストはほとんどゼロ、というかまあ、逆にすればするだけ楽しいので、コストはむしろ逆コスト(ってこんな言葉ないけど)です。でも、書くこと読むことに精神的苦痛を感じる人は、つまりそれを努力、と呼ぶのであろう、と考えられるでしょう。
例えばMKは、地道な単純作業の繰り返し、とか全然好きではないので、そういう行為をするには努力が必要になります。MKにとっての精神的、肉体的コストが高い訳です。例えば毎日早起きしてなんて、MKにとってはたいして努力ではないけど、それが苦労の人もたくさんいるのでしょう。
でも、例えば、MKはこれをこの人に行ったら怒るだろうな、ということをすぐ思いつきます。生まれながらにしてそうなのです。で、言わなければいいのに、それをその人に向かって言いたくなってしまう、という癖があって、絶対に損なのに、言いたくてたまらなくなる。その誘惑に耐えるのがすごくコストでした。
例えば、「頭が悪いな」と思う人がいたりすると、
「私は貴方の頭が悪いと思っています」
「その理由はこうです」
ということをその人にむかってプレゼンしたくなるのです。
侮辱するつもりも意図もないのですが、それを抑えるのが本当に難しかった。
とは言え、「苦労」すれば、「苦痛に耐える」ことによって、根性とかガッツ、精神力、レリジエンス、みたいなスキルは身に着くときもありますので、それはそれで役にたつことがない訳ではありません。
例えばお百度を踏む、とか、水こり、みたいな行為があって、例えば誰か身近な人が病気とかで苦しんでいて、何かやりたくてでも何もできなくて、せめて自分も同じだけ苦しい思いをしよう、みたいな行為で、でも、お百度を踏む、冷たい中を歩く、という行為そのものが誰かの病気に効く、ということは考えにくくても、精神的にそういう事をしたい、のであれば、それはそれで(好みの問題ですから)MKは否定する気はありません。また、同じ行為をひたすら繰り返すことによって、一種のトランス状態となって何かを成し遂げた精神的満足感を得ることはできる。
ある行為・行動あるいは状態が、ある人によってはスキルの獲得や上達に役立つ時もあるでしょうし、そうならない場合もあるでしょう。それは、その行為行動状態をある一定時間、ある回数だけ繰り返してみて、その結果を検証するしかありません。そして、繰り返しと検証に関してはできるだけ早く、短くサイクルをまわす必要があります。
ただ、留意しなくてはならないのは、「努力」「苦労」すなわち「苦しい」=ある行為をするときに精神的、あるいは肉体的コストが大きいほうが効果・効能が高い、とは限らない、「苦しんだ」ことが価値になってしまうと、コストが大きい割には、効果・効能が低くて成果には結びつかない場合も多い、という事です。
その結果、「努力」「苦労」ではない、ある行為・行動、状態や反応など、経験値を積むもの、を管理して効率よく累計する必要がある、そのためのユニットを設定することにしました。
そこで、そのユニットに「アイトナム」という名称を与え、「宗営」という漢字をあてて、管理する手法を開発しました。
とある結果や成果が欲しいとき、どのアイトナムをどれだけ繰り返せば一番効率が良いか、どのアイトナムが一番効果的なのか、を見定める必要があります。
「努力」という言葉だけで、成功要因=人間の行為行動をくくってしまうと、方向を見誤ることになります。それをさけるためのユニットとして、アイトナムという概念を採用したのです。
(補足2) 読書の効用について
そして、すべての行為・行動・状態・反応を効率よく管理する方法として、アイトナム理論を採用に至って、さらには、アイトナムに共通する唯一の特徴、というか項目は、
「アイトナムは、全て、フレーズで表現できる」つまりは、
「アイトナムは、全て、フレーズに還元・表記・置換が可能だ」ということです。
読書と記述の有効性をここで説明できます。
「本」というのは、全ての現象を時系列、あるいは非時系列で文章に表現、文章に置換する試みです。
努力、とか苦労、とか行為、とか経験、とかあるいは状態、とか、すべてをフレーズにして表現・置換することができるのです。
「本」を読めば読むほど、そして、文章を書くほど、この置換にノウハウがつまれて容易になります。
そう考えると、自分の周りは、すべてアイトナムとして受信が可能になります。
ちなみに、MKは、「受信」という行為を、下記のステップに分解して管理しています。
認知 認識 解釈 評価 実感 共感または反感
また、「情報の受信」と「情報の獲得」を、違う概念でとらえています。
そして、認識と解釈のステップに、「マイマントラ」をさしはさみ、現実の認識を自分のビジョンに向かって評価し、ベストなオプションを選択してその方向にそって行動・行為を行う、それを毎日、少しづつでも繰り返すことによって、自分の人生をコントロールしてゆける、のです。
MKは、これを「アイトナム理論」と名付けました。
そう考えたとき、「読書」は恋率の良いトレーニングになります。
そして、「読む」だけでなく「書く」行為によって、自分が体験する全てのイベントを、その一つ一つをアイトナム、として認識する事が可能になるのです。
読書量/著述量が不足している人間は、読書量/著述量が多い人間に比べて、アイトナムをフレーズで表現できません。その結果、現実世界と認識世界の境界が乖離する、あるいは曖昧になる可能性が高い。その点、読書量/著述量が多ければ多いほど、現実世界をアイトナムごとに時系列で認識が可能になるので、現実対処の方法にアドバンテージを獲得できます。
最近では、例えば動画、例えば絵文字やシールで、アイトナムを手軽に表現してしまうメディアが発達した結果、「きちんとした文章で表現する」=「目の前のイベントをアイトナムと捉えてフレーズブロックする」必要性がますます少なくなっています。
「現実世界」の把握に、フレーズを、文章を介在させていない人間は、その分、アイトナムの扱いが曖昧あるいは稚拙になってしまいます。その結果、アイトナムのコントロールを競った場合、大変不利になる可能性が高いのです。それに比して、読書好き、著述好きは、恒常的に言葉をつかって、「アイトアム」を表現することに慣れている分、「アイトナム理論」を理解すれば、社会的あるいは経済的に優位な立場をキープすることが可能になります。
なぜか?
目の前のイベントをコントロールすることができるからです。
全ての「本」は、ある一定数の人物(=主人公を含めた登場人物)のアイトナムを(基本的には)時系列にフレーズに還元・置換・表現しているので、読書になれている人間のほうが、現実世界において、「自分の身に降りかかったイベント」を「アイトナム」として「認識する」ことが容易になる可能性が高いのです。
これは、アイトナムをコントロールすることによって、人生全体をコントロールすることを考えた場合、かなりの程度アドバンテージにつなげることが可能です。
とは言え、「読書」自体は、ただ、「アイトナム理論」の基礎体力作りに効果がある、というにすぎません。「読書」だけして、現実世界にチャレンジしてゆかない人間は別の理由で、成功することはできません。
アイトナムを意識する、アイトナムをフレーズにする、その結果、さらに現実世界に働きかける、ここにまでつながらないと、成果には結びつきません。
行為する、行動する読書人が成功できるのは、ここに理由があります。
0コメント